号泣
ritoに統合失調症について質問され、吉本ばななさんの「マリカの永い夜」にその病気の登場人物が出てくるよ、と、本棚の奥から久しぶりに取り出し20数年ぶりに読んだ。
読み始めてすぐ、それは初めての経験で衝撃的だった。
冒頭、物語が動き出す前なのに。
まだ、ジュンコ先生とマリカの乗った飛行機がこれからバリに到着しようとする場面だというのに。
突然、何かがこみ上げてきて号泣してしまった。
もちろんだいたいのあらすじは覚えているけど、細かいストーリー展開やセリフなどは覚えていなかった。言葉や文章の意味そのものに触発されたわけでもない。ストーリーを思い出して感情移入したわけでもない。
その瞬間、言葉で説明できる理由は何もなかった。
感覚?それか感情のみの強烈な記憶が突然フラッシュバックしてきたような、自分でもなぜそこまで突然瞬間的に号泣したのか、そんな疑問に思う気持ちも打ち消すほどに、強い衝動だった。
言語化すること、論理的に考えることが多く、きっと左脳、そして大脳新皮質辺りがフル稼働している日常とは、全く違う感覚。
意味を理解する、なんて表面的なことを飛び越えて、感覚的な本能的な、ずっと奥の方を揺さぶるようなもの。
懐かしい匂いを嗅いだ時、ふと思い出しそうな何か。電車の座席に座った途端、フラッシュバックのように、ふと蘇る新入社員の頃の朝のアンニュイな空気。舗装道路の割れ目からわずかに見える土と、そこから伸びている雑草を見て、思い出す土の香りと感触。故郷の北海道に降り立った時に、たぶんその緯度経度でしか感じられない、日の傾きや湿度の低い空気から感じる懐かしさ。自分で弾くピアノの音の響きやハーモニーの移ろいで蘇る、幼いころに弾いていた、夕陽の色に染められたピアノの鍵盤の感触と色彩。
普段は、自分の価値観に則って目的や意義をはっきり言語化し意識して、自分にも他人にもわかりやすい行動を選択していく。そんな時間の積み重ねが充実した毎日、ひいては人生を生きること、というような思考に傾きがちだった。
でも言葉で説明できないことはたくさんあって。
感覚を解放して身を委ねた時にキャッチする何か、そんな何かが、魂を揺さぶったり、幸福感をもたらしたり、生きている感覚を強く感じさせたりするのかな。
そんな感覚や感動を味わいたくて、美しいものを求めて、見たり触れたりするのかな。
久しぶりにそんなことを考えさせられました。
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左脳的な疑問。
動物の感覚はどうなっているんだろう?
人間以上に鋭いものや、鈍いものがあって、それが記憶されていたり思い出したりするのかな?
人間に話は戻って、記憶領域は脳以外にも、脊柱や小腸あたりにもあるとか、いや、全身の細胞にあるとか、神経細胞や皮膚細胞も痛みや傷を記憶するとか聞いたことがあるけど、その辺はいわゆる普段使う「記憶」ではなく、細胞の働きが継承されるという意味での記憶?
集合的無意識のことまで考えだすと、だんだん違う話になってくるけれど。
最近記憶に関する科学的な研究は加速して進んでいるような印象。
昔はなかった、脳の仕組みを利用した勉強法やトレーニング法をあちこちで聞くようになりました。
興味深いことが多すぎる(笑)
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